第七間氷期

本や映画、ゲーム、英語学習、料理、プログラミングについて考えたことを表記する試験的なブログです。読み方は、だいななかんひょうきです。

テレビの無い暮らし

テレビが生活から消えて3年が経った。昨今では珍しくもないだろうが、テレビの有無による生活の変化について綴ってみたい。

 

目次

情報過多からの離脱

そもそも何故テレビを消したのか。

 

第一に身の回りの情報過多が挙げられる。例えば、都心で働こうとすれば、まず電車に乗るだろう。感情を殺したような人々、鮨詰めの車内、他者の呼気に満ちた空間。そして、車内広告。混雑する車内では本を広げるのも容易でない。見たかろうが見たくなかろうが、目に入る文字の多さよ。外に出るだけで情報の量に殴られる。お手上げである。

 

このような生活を送る上で、家の中でまで情報に晒されたいだろうか。ニュースであり、バラエティであり、ドラマといった情報。事故、事件、汚職、結婚不倫、云々。このようなことを毎日知る余裕も、その必要もない。何より他者の死生に関する情報を朝から得るのは重過ぎる。芸能人のおどけた笑いや、ドラマも不要だ。

 

静けさがほしい。

 

兎に角この情報過多社会を生き抜くにおいて、テレビを敢えて選ぶ必要が微塵も無かった。もしも情報が必要であれば、無音の媒体で能動的に調べるだろう。

パーソナルスペース

次に、パーソナルスペースの問題である。

パーソナルスペース【personal space】

他人に侵入されると不快に感じる、個人の身体を取り囲む空間領域。心理的な縄張り空間。その範囲は人種・民族・性別・文化などにより異なる。

『家とインテリアの用語がわかる辞典』講談社,2011

 

端的に言えば、家の中でまで見知らぬ他者の姿や声を認識したくないのである。これはより根源的な問題である。

 

他者も言うなれば情報の一種だ。そして3次元であるならば、物理的な領域を取る。膨大な情報の塊であり、漏れなく音を発する。暮らしの中で他者と接しない日は無い。自己のみで完結できる日は稀だ。居心地の良い他者、そうでない他者。様々であるが、接する過程で一様に何かが磨り減っていく。

 

パソコンのメモリを思い出してほしい。文字や写真、映像の情報、人間という情報がどかどかとメモリに入ってくる。処理能力が間に合わず、動きは鈍くなり、負荷がかかる。私は人間であるが、同様のことが言える。意識的にメモリを解放し身軽にしたい。

 

 

まとめ

不要な情報を得ないよう、また他者の存在を自宅で認識しないようにテレビを消した。

 

しかしながら、すげ替えるかのようにインターネットの荒波に揉まれることもある。ただ、テレビには聴覚情報が付き物であるが、インターネットは必ずしもそうではない。

 

吉良吉影は静かに暮らしたい」そうであろうとも。そうであろうとも。今後も情報の節制を続けて、私も静かに暮らしたい。